理想的なスピードで

28歳既婚男性の日々の悩み

家事

昨日も少しだけ触れたけど、家事について考えていた。

 

僕も妻も実家から遠く離れて、2人だけで今迄の人生で特に馴染みもなかった埼玉県で生計を立てて暮らしているのだけど、妻も僕も正社員でフルタイム働いている。

お互いに1時間前後通勤時間をかけて、僕は埼玉北部の、妻は東京の職場に通っている。

そんな形でお互い働いて、同棲しているカップルや夫婦は今では全く珍しくないというか同世代のスタンダードだと思う。

にも関わらず、家事の主導権が女性側にあって、当然のように女性に任せている男性が非常に多いことが意味がわからない。

 

どちらかがとても家事が好きで、楽しいからやらせて欲しいというので任せているなら理解できる。でもおそらくそんな家庭ほとんど無いと思う。

2人で互いを補い合うことは大事だと思うし、得手不得手はあるから、バランスとしてどちらかに特定の作業のウェイトがかかるのはいいと思うんだけど、仕事量で考えた時に天秤は吊りあってるべきだと思う。

 

僕の実家で父はほとんど家事に参加しない。カレーぐらいしか料理はできないし、服のしまってある場所も、風呂の沸かし方も、下手したら洗濯の仕方さえわからない。母はパートタイムでケアマネージャーの仕事をして、家事のほとんどを担っている。母親が突然死んだり体調を崩したら生活が回らないことに気付いた時に、父の生活は思ってた以上に脆い地盤の上に立ってるんだなぁと思った。

 

そもそも、自分で働いて自分の給料で生計を立てられる年齢になったなら自分の事は全て自分でやるべきだし、できないのはとてもダサいことだと思うんだ。家事ができないということは、僕、私は、誰かにもたれ掛からないと生きていくことができませんということを声高に叫んでるようなものなのだ。

女性もそんな風にただ性別の問題で労働力を搾取されたら声を上げるべきだ。自分の価値もパートナーの価値も落とすことになるし、見返りのない献身はいつか不満をもたらすだけだと思う。

 

みんな大変だけど自立して胸を張って生きていこうぜ。

 

結婚

ここ2年ほどで結婚できそうな僕の友達は軒並み結婚したんだけど、出席するたびに結婚式のアップデートされなさに少しの苛立ちを感じたりする。共働きも普通のことになった時代になんで"古き良き家庭像"みたいなイデオロギーを想起させるような口上が溢れてるのだろうと思う。

老人は死んでいくしリタイアしていくけど、男性が稼ぎ、女性が家事の中心みたいな家庭像を未だに望んでる若い男女もいるのでお互いの対等な関係性が保証される社会を作るのに一番障害になるのは同年代の保守なんじゃないのかなみたいなことも思う。

あと、結婚はゴールじゃないし、結婚が幸せへの道なわけではない。

 

そもそもどんな時も人間には上下関係はないと思っていて、例えば仕事であっても組織を成り立たせるために、立場と役職の差から生じる業務内容の差があるだけで上下関係を分けるものではないし、上司、部下の関係は便宜的なものだ。

妻と対等な関係で居続けるためにも努力し続けてバランスを取っていかなければならない。

共働きしてるのに、料理とか家事全般をなんとなく女性がメインでやってるとかもすごく苦手だ。

妊娠出産も男もできたらいいのにとかも少し思ったりする。

 

僕は妻に依存してる部分があるので良くないのだけど、お互いが互い同士で自立してて、勝手に幸せになれて、その上で2人でいたらより楽しいみたいな関係性で生きてけたらいいなと思う。

都会と田舎

これは完全に余談だし、"はじめに"に書けという感じではあるんだけど、このブログは帰りの電車(乗車時間約35分)の間に下書きを認めて(したためるってこんな字だったんだな)トピックについて言いたいことを吐き出して満足したら投稿というサイクルで書いている。最初は平日毎日更新しようかと思ってはいたけど、なかなかそんな暇も無くて、とはいえ途切れたら書くのをやめそうなので、可能な限り毎日書くのを目標にしていたりする。

 

毎日自己開示的な文章を書き続けることはそれはそれで疲れるので、今日は田舎と都会について書きたいなと思う。

ツイッターなんかで見る都会田舎論は二元論で考えすぎていて、東京、大阪みたいな誰もが認める大都会以外は全部田舎みたいな雰囲気を感じる。

僕は愛知県の西三河の、今では市になったけど僕が20歳になるまで郡という行政区分で仕切られていたおそらく誰もが認めるだろう田舎

例として

・徒歩圏内に飲食店がない。

無人駅しかないしJRが通ってない(隣の市まで行くと往復800円以上かかる)

・住所に大字がつく

に18年間住んでいた。(図書館だけはわりとちゃんとした図書館があって唯一の救いだったし本当に毎日のように訪れていた)

だから日本の大抵の市は地方都市であって田舎ではないという認識があるし、政令指定都市は都会だという認識がある。

 

田舎に住むと、中学までの同級生にバンドやってる子とか、美術的なものに興味がある子とかもいなくて、基本的に文化と無縁(今はスマホもあるし、ネット環境が身近だからそんなことはないかもしれない)で、そんなこともあって知的なカルチャーへ触れられなかったコンプレックスが僕には強く根付いている

 

だから僕は都会に住んでいたいと強く思っている部分があって、今はさいたま市だけど都内に住みたいなと思いつつ、転勤のある会社なこともありコントロールできないでいる。自分の人生計画をコントロール可能なものにしたいから、転職を考えようかとも思っている。

 

結局自分語りになったけどそんな感じ。

日本語でまともに対等な存在として妻を呼称する語が妻しかないことが非常にバリエーション少なくて嫌なんだけど、何かないのだろうか。

嫁は誤用だし、奥さんも家内もこの時代的にも僕の心情的にも差別的であると感じる。かろうじて細君?

 

妻とは大学時代に出会って、5年付き合って結婚して丸3年以上が経った。

僕はまともな交際経験がない人種なので、初めての彼女であり、唯一の交際相手でもある。そして唯一の交際相手のまま人生を終えられたらありがたく思う。

 

生活の中で一番幸福を感じる時間は、起きて仕事の準備を終えて家を出るまでにまだ余裕のある数分間に、寝ている妻の寝顔を見ながら肩を揉んであげたり頭を撫でたりしている時間で、毎日その生活の余剰みたいな時間に愛を強く実感する。

 

妻のことを非常に大切に思っているし愛しているのだけど、僕は自己愛が強い人間だという自覚もあって、自分のこと以上に妻のことを愛していると胸を張って言える自信はない。

でも妻のことを自分の分身のように思うこともあって、妻が頑張っている姿とか褒められている姿とかを見ると自分のことのように誇らしかったりもする。

 

なにが言いたいかと言えば、妻のことを好きで居続けたいし、好きで居続けて欲しいと思っているので、そのためにも、妊娠、出産、仕事、生活についてちゃんと計画を立てて善く生きなければいけないなと思っているということ。

飲み会

今の会社の業界が悪いというところが多分にあって、製造業を相手にするような専門商社なので基本的に男社会だし、昭和的価値観に対してなんの疑問も持たず過ごしてる人が多いし、女性は家庭みたいな価値観が未だ主流だから、今はそういう時代じゃないからと言いつつ結局男は仕事してなんぼみたいな価値観が支配的なので、家事全般を生活の一部として行っている僕はそれだけで非常に浮いていて、そんな会社での飲み会が楽しいはずがない。

 

仕事の話題か、風俗や性交渉の活動履歴についての話題か、ゴルフの話題か、うんこちんこ言ってキャッキャしてるかぐらいしか会話のパターンがなくて、どこにどうコミットしようとしても無理だなという感じだし、会話自体にもコンテンツ力がないから話題そのものというより語り口にも面白さを感じていなくて、、、という不満しかない状態なんだけど、救いは頻度で言えば2ヶ月に1回も飲み会がないことですね。

そういう話題で盛り上がれる人を理解せずとも尊重できるようになりたいんだけど、まだなかなかか至らぬものです。

 

基本的に僕自身のタイプとして場を回すタイプではないから、面白さを提供するきっかけを作れないという反省もあって、自分自身のコンテンツ力を上げてもいきたいね。

 

そんなところもあって仕事は比較的楽だし、休みも多いけど、居場所はあまりないから仕事を変えた方がいいのかなとも思いながら、踏ん切りのつかない日々がもう6年も過ぎてしまった。

 

でもクソみたいな飲み会の帰りに聞く音楽は本当に救いで、人生の美しい瞬間のひとつだと思う。

時期

子供を産むことを考えた時に最初に僕が思うのとは子供の誕生日を4〜6月、せめて9月までぐらいにしたいなということだった。

僕自身が早生まれだから、あらゆる問題の原因を早生まれに求めすぎるところがあるなと思ってはいるものの早生まれを憎んでいる。

まず持って早生まれという名前が良くない。多くの仕組みが4月起点に動いている社会なのに早生まれという言葉があることがそもそも紛らわしい。

 

4月生まれと3月生まれの子には1年近い成長格差があるのに4月に入園、入学させられて、運動能力や学力を比較されるのは全くフェアじゃない。東大入学者もプロアスリートも4月生まれが多いと聞く。僕は長距離走について考える時、保育園でのマラソン大会での惨めだった光景を思い出すしそれがスポーツ嫌いに繋がったという強い実感がある。

12月とかに入園申請が締め切られるから、早生まれは保育園の入園にも不利らしく、認可保育園に入れる際にも障害になるようだ。

 

そんなこともあって早生まれにならないように考えて子供を作りたいという意思があって、調べているとまあこの考え方は割と一般的にあるようで、世界?は着々とデザインドベイビーな世の中になっているんだなと感慨と恐怖を感じる。

 

まだ出会ってもいない子供の人生を勝手に想像して、有利不利とかを考える自分自身のエゴイスティックな思考にも不安を感じる。

幸せの形を他人に決められたくないと強く思う性格だけど、紋切形の温かい家庭みたいなものに幸せそうだという幻想を抱いてしまう。

 

でも、なにも考えないってことが利己やエゴから遠ざかる方法なのだろうか。思考停止は責任の放棄じゃないのかとも思う。

Stop Brain〜思考停止が唯一の希望〜

子供

時間に余裕があるような気になっていたし、女性の体について考えが非常に浅かったから、自然妊娠を望んでいたら簡単に入籍から3年間が過ぎてしまった。

 

僕は子供が欲しいと強く思っていて、なんでか考えると、

・単純に子供が好きだから

・このまま夫婦2人で閉じて楽しく生きていく  ことは虚無感が付きまとうから

・将来を考えた時に子供がいないことへの恐怖感があるから

・親族に子供を見せてあげたいから

・世間一般の価値観(という一種の被害妄想、強迫観念かもしれない)でいうところの普通側に属さないことに対する恐怖があるから

というものがあるなと思ったのだけど、そんな自分勝手な理由以外に他の人はどういう気持ちで子供を求めるのだろうか。

本当に打つ手がなくなったら養子を取ることも考えてるけど、こんな自分勝手な人間に、血の繋がりのない子供を血の繋がりのある子供と同様の心持ちで育てられるのだろうか。比べることは原理的に不可能だけど、もし仮に養子を迎えることを選んだとして、その子に自分の血が繋がった子供と同様の愛情を注いだと言える自信はない。

 

妊娠出産子育てみたいなことに対する不安は色々あるからそこも問題点を今後整理していきたい。

とりあえず近日中に僕の身体に問題がないかのチェックに行こうと思う。

ブライダルチェックというものがあることを僕は今更知ったけど、本当は結婚前後にそういうことをしておいた方がいい。